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CWニコルさん

 だいぶ前ですが、日本びいきのCWニコルさんが来日当時、空手を習っていた話を聞いたことがあります。

 同時に、禅を西洋人に理解してもらおうと、「動く禅」という本を書いて母国イギリスで出版したという話もその時知りました。ヨーロッパで禅が流行していた時で、ベストセラーになったということです。

 この本の題名はニコルさんが空手の師匠に「空手は動く禅である」という教えを受けたことからつけられたのだったと記憶します。

 動くと言う事は全ての根幹のような気さえしてきます。犬も歩けば棒にあたるー。というあれです。

 しかし、間違った考えの下に動いたのでは地獄へ一直線です。かといってどんなに正しい考えを持っていても、動かなければなんにもなりません。

 ちょっとまとまった事書いてるなー、と油断をすればまた、支離滅裂、あっちこっちに飛んでゆきそうですが、人の迷惑かんがえず、続けます。

 この、飛んでいってしまうと言うことにも関連するのですが、私が時々引っ張り出しては自分を含めて人を煙にまく、あの、座標軸が動くという屁理屈をまた出動させます。この場合は動くというより延びるという感じですが、大まかに言って変化するとでもいっておきます。

 私はどうもついてゆけないのでそう思うのかもしれませんが、商売上差しさわりがあったらご勘弁ねがいます。決して良い悪いを言っているのではないということで・・・。

 本題です。「究極の」とか「至高の」とかはたまた「最高の」とか、冠してあるとよく訳がわからなくなるのです。

 私も俗人中の俗人ですから、言わんとすることはわかりますし、少しでも美味しいものを提供出来たらよいと思っているところでは同じです。そして、それだけ努力もされているのだと思いますから、くどいようですが、表面に表れている言葉をとやかく言ったり、そんな表現なんかするなと言うのではありません。

 今、座標(0,0)の所にいて、究極が(100,100)というように限定して考えてしまうと、(98,98)とか(99、99)のところまで行けば、もう最高とか究極の域と考えてもよさそうです。

 しかし、どうも最近究極とかって、行っても行っても行き着かないというか(100,100)というように限定できないもののように思えてなりません。

 どうやら目標に近づくとその目標がまた先へ行ってしまうというか、理想がどんどん高くなるというか、きりがないように思えて来ました。

 なんかスタート地点の(0,0)がそのままと仮定してみると、(100,100)が近づくにしたがって、また遠くへ行ってしまう・・・。この場合、座標軸がどんどん間延びしていってしまう様な感じです。

 私の場合、コーヒーの焙煎において、そんななのです。

 20数年前のスタート時点を(0,0)として、当時のことを思えば今のコーヒーは、その頃の目標をはるかに超えて(120,120)と言ってもよいはずが、毎日、まだまだああしようこうしようで、悩みは尽きません。自分の感覚では、まだ(80,80)の感じです。

 この後もきっと(100,100)の座標はどんどん先へ延びていってしまうんだろーなー。でもがんばるぞー。毎日一歩づつ。

 

 

 

 

 

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