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珈琲家 香七絵

8月30日から9月3日までお休みします

 ばたばたしているうちに明日から遅い夏休みです。逆ピの方は明けに続けます。別に引っ張っているわけではありません。

 では、ご機嫌よう。

逆ピ プロローグ

 前回からもう二回畑に行って来てしまいました。

 で、逆ピを説明するにあたり、考えの基準になる環境を設定しておかねばなりません。
 
 私には月が平面に見えます。宇宙の常識や写真やその他今や当たり前になっていますが、地球も月も球体であるという知識をもってしても、正直のところ、私の目では平面の丸いものにしか見えません。

 なにしろ花火ですら、随分と長い間、平面に広がっているものと思っていました。これは、花火の作り方を知って、球状に広がるのだと解りましたが・・・。

 そして私の暮らしているこの大地はというとやはり平面にでこぼこがついたような物にしか見えません。

 灯台の下から海を見晴らすと、ほーら、水平線がカーブを描いていて地球が丸いことがわかるだろーぉ。と言われたそのときはそう思えるのですが・・・。

 普段はやはり平面なのです。

 だいたい丸い地球の上に自分が立っていることを想像すると、どっちを向いても下り坂、あれ、歩いてゆく時は上り坂かな、あれ、なんて夜も眠れない。まぁこれは冗談ですがね。

 数学も初歩のうちは平面上で考えるわけでして・・・。

 ここでも、平面で行きます。

 二つの普通のピラミッドが平面(大地)に並んでそびえて居る所を想像してください。

 まず一番下に正方形に石が並べられ、頂点の一個の石が一番上にあります。

 したがって、その高さは底面の大きさにより、ある程度決まってきます。

 まぁ石ですから逆さには出来ませんがね。

 ここではなにも石で出来た本物の話ではありません。

 ピラミッド型のイメージを浮かべて下されば充分です。

 で、普通のピラミッドですが、底面が先にありますから、それ以上の広がりはありません。

 隣同士も一定の距離を保って、近づきも離れも出来ません。

 さて次に、逆さにしたピラミッドを想像してください。そうです、頂点が一番下にあって少しはその頂点が地面にめり込んでいるなんざいいですねー。

 すみません、時間です。続きはまた・・・。

 

 

 

 

21世紀後半の切り札「逆ピ」

 大げさですねー。我ながら。

 この、釈迦が逆ピラミッドの一番下にいる理論を歴史を変える「逆ピラミッド理論」と名づけ、「逆ピ」と省略することにしました。やはり西洋の人にもわかってもらうために、あえて「理論」としました。

 この逆ピの理論はこれからの世界平和に無くてはならないものです。

 これを聞いて暑さを吹き飛ばしてください。

 けっして冗談ではないので、真剣に願います。

 今までの世界ではたいていのものが、頂点が上の所謂ピラミッド型で出来ていました。というより、そう思い込んできました。

 国家形態は言うに及ばず。教育界すらも、近代に及んで間違った「進歩」の名の元にピラミッドを形成してしまったのでした。

 ヤクザの世界や坊主の世界まで少数の「上」が多くの「下」から吸い上げる構造をしています。

 各界(角界も)しかた無かったにせよ、せめて教育界だけは、の願いも虚しく、大間違いのコンコンチキで来てしまったんですよね。あえて人の不幸を作り出している。

 人と人が区別されるということが、人類から平和を遠ざけてきたのです。

 頂点にボスが居て子分をたくさん従えている。それも、その子分たちに偏差値で位をつけ、お互いがけん制しあうようにし・・・。

 まぁボスをみんなで選べるようになってきたのがせめてもの救いというやつでしょうか。

 たまたまボスと子分の話になったので、そこを糸口に進めます。

 今はまだですが、あるべき姿としては、全員が上の方に居て、ボス(と言ってよいかはわかりませんが)が一番下に居る。私の言う逆ピの形が本来の姿だと思うのです。

 これから本題というところで時間が来ました。続きは畑仕事のあとで。また。

 

 

 

 

 

 

 

 

言いたいことついでに

 世間で言ったら袋叩きに遭うようなことでも行ってしまおうかと・・・。

 実はですねー。前々から思っていることが、考えれば考えるほど世間に逆らった方向に行くのです。

 釈迦に十大弟子というのがいたというのです。そして、各弟子の特徴が、まぁ一種の教えのようなものとして残っているのです。エピソードというのか、教訓というのか、何というのでしょうか、そんなんで紹介されている釈迦の高弟たちのことです。

 んでもってこの人たち、高弟であるとすると少し筋が通らない。

 あまりにそれぞれ特徴がありすぎる。まぁそれぞれの特徴を誇張してわかりやすく残したと思えばよいのでしょうが、私の目はごまかせない。

 この誇張された十人の人たち、本当は釈迦より前に生きていた人たちだということにしたほうがより真実味がでてくるのです。釈迦の息子までいたということになっているが、真実味を増すための後付のようにも思えてくるのです。

 釈迦はそんな人たちを観て、あるいは師として、自己形成して行ったと言う方が自然なのです。

 その人数は無数だったと言ってよいかも。息子の話にしたって釈迦ほどの人物ならば年下の者のよいところ悪いところ自分の糧にしたっておかしくないのです。

 どうしても釈迦が頂点にいて、教えが広まって行った。という方が釈迦に尊敬が集まり、教団をまとめやすいからでしょうか。どうも弟子たちということになっている。

 このピラミッド型の思考法は例の過去より現在の方が進歩している、発展している、という獏とした思いを持つ人を洗脳するにはちょうどよいのです。

 よい考えが広まり、だんだんよくなっていく。・・・えっ。それだったら釈迦のコピーみたいな弟子がたくさんいてもよさそうなのにねー。

 真実は逆ピラミッド型なのです。大勢の人たちの考えや行動を見たり、聞いたりして、真摯に受け止め、じぶんなりに答えを出していった。そしてその容量が並でなかったということなのでしょうか。

 実際当時の年表を見てみると中国の老荘思想など釈迦が貪り学んだに違いありません。えっ、釈迦は貪るなと言ったってぇーっ。

 やはり古の賢者たちの考え方を学ぶことは私にとって是非とも必要におもえるのです。

 

 

 

 

この辺で

 お盆でもあるので、この場を借りて各地に散る弟子たちに檄。

 「兵法の師とは兵法の土台たる大本のみを伝授いたす。それより先の上達は、当人の天分と鍛錬による。」・・・笹沢佐保の宮本武蔵より。

 借り物ですまんが、まさによく言ったものである。

 大本のなかには、他に無い秘伝が含まれていることは言うまでも無い。

 益々精進し、お客様にお応えすることを望む。

 

おしーいっ

 秋月師が、稀に大拙師に苦言を呈する。西洋的進化論から抜け出ていない時がある・・・と。

 昔より今の方が発達、発展している、という獏とした思いをさしているのだと思う。

 テリー・イーグルトンは秋月師と同じく今、が過去より進歩していると思うことに懐疑的だ。が、わたしの独断だが、彼は鈴木大拙をかなり読んでいると思えるところがある。

 つまり、デカルト的二元論では人のこころの問題には不十分であるというところまでは来ている。

 しかし、一元論の魔力のにおいは嗅ぎながら、もう少しのところで理屈をこねざるをえていない。

 えらそうに言っている、かく言うわたしもそうなのですがね。

 それで、このーぉ、愚かな私がまっすぐ生きるために本来宗教がある。しかし、天邪鬼な私はあくまで哲学としてとらえるのじゃと、無い頭を無駄に使う。

 しかし、これも「哲学三昧」という様にとらえれば、あながち、はずれでもなさそうである。

 

いろいろ言いたくて支離滅裂に

 もともとがとっちらかっているのに更に滅裂になっている頭の中ですがお許しくだされ。

 私は前々から、マルクスの唯物史観が宗教を否定する狭い意味での共産主義とは少し温度差があるように思っていたのです。

 おそらく聖職者は生産しないという偏見から来たのか、共産主義社会にはどうも馴染まない。実際にはベルギービールやワイン、バター、日本では田を耕し、畑で野菜等を生産し・・・。やっぱ自然発生的考え方が人為的な社会には合わないのか。ホームレス的なのが・・・。

 テリー・イーグルトンもキリスト教徒でありながら、マルクス主義大好き人間のようです。

 私もマルクス好きな者の一人ですが、その深い愛情は共産主義には収まりきれないと思っていました。

 マルクスは人の心が唯物論のみで片付くとは思っていなかったはずで、これも、今の資本主義社会の欲望とはまた違う欲望によって捻じ曲げられていったとしかおもえないのです。

 やはり人の心は科学では解明出来そうもなく、古の、と言うより古からの先人たちの考えてきたことを丁寧に聞きなおしてみるのが、今私のするべきことのひとつであるとおもうのです。

 

 

 

 

なにが言いたいのか

 まー、珈琲豆屋でよかったと思うひと時ですねー。けっこう何を言っても戯言ですませてくれる。

 ようするに、神が万物を創造したもうたから神を信じるのではないと思うのですよね。

 神の万物創造を考えついた人間の考え方そのもの(決して人間自身ではない)を信ずることが社会の中での人間を癒すのではないかと思うのです。

 しかしながら、一番信じられないのが人間でもあるのだしなー・・・。

 神がいるとかいないとか、神が万物の創造者であるかないか、それは実はどちらでもよいのだと思うのです。信じることのみが大切なのです。えーっ、へんなのぉー、と言わないこと。

 変だからこそ信じられるということもあるわけでして・・・。

 社会というのは神様の創ったかもしれない人間が便宜上こしらえた、あるいは自然発生的にできあがってしまった、まさに科学によっても、宗教によっても決して解明出来ない恐ろしいものであるらしいのです。

 生きた人間というのは、私の知る限り、この世で一番恐ろしいものかもしれません。

 テリー・イーグルトンの言葉を借りれば、神とは「現実世界を変革するという使命を提示する」ものであって、その御前にて「妨害された欲望を表明しながら、同時にその欲望を別のものにすりかえてしまう」対象ではないといったところでしょうか。

 してみると、やはりそれを思うのは人間自身でしかないのであって、神の側の問題ではなく、しかしながら神が存在するとかしないとかでもないといったところでしょうか。

 考え付いたと言うと不遜かもしれないが、それこそが社会の中で希望をもつことが出来るための根本なのだと思えてくるわけです。

 神様がいると信じるのも人間だし、信じようとしないのも人間なのですね。

 この堂々巡りの自業自得野郎は、神様でもキリスト様でも、仏様でも雨でも槍でもどうにもこうにも・・・。

 そうだ、ポワトリンを呼ぼう。


 

しかしまーなんですね

 いろいろな人の考えを読んでいると、人の考える事というのは地球上みな似たりよったりのような気がしてきます。

 ニーチェやフォイエルバッハにしても、科学信仰者にしても、宗教擁護派の人々にしても、ですねー。

 大胆な言い方をすれば、同じ混沌とした、なんか漠然とした、ひとつの人間という本当にわけのわからなーい存在に対して何とか「おとしまえ」をつけようと本当にがんばる。

 ただひたすら人間が不幸に陥らないように、脳という莫大なエネルギーを消耗する器官をフル稼働させる。

 ただよく言われるように、知性の声は小さい。

 ものも考えずに欲望のままにうごめく、もちろん私自身も含めての話ですが、そんな人間が大多数であり、この社会を形成し、動かしている。

 そればかりでなく、自分のかわりに一生懸命、文字通り命を削って頭脳を働かせてくれている人に対し、ナチズムの支えになった考えかただなどという汚名を着せたり、食い扶持を取り上げたり、原爆の基になる理論を考えついたのがけしからんとか・・・

 それを自分の欲望にまかせ、自分が不幸にまっしぐらに進んでいることなど少しも気づかず、日々、目先のことにのみ生きている人間が、少しも疑問にも思わず、一部の、欲望の人一倍強烈な人間に扇動され、それらを悪用し・・・というわけなのですね。

 あうー。ここでベルギービールを飲もうというお誘いが・・・。実は「ルーイ」に日本初上陸のフルーツビールの生が入ってですねー。これがじつに旨い。

 ここんところ前を素通りできないのですよね。で、今日もまた・・・。

 限りない欲望に目が眩み・・・。

 というわけで、続きはまたあした。

 

・・・どんどん

画像川根 021.jpg

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